当社でメンテナンスさせて頂いているGTR乗りのお客さまより、「内田さんには読んで貰いたい」と送られてきたものです。 |
梅雨明けした昭和46年はひときわ暑い夏だった。スイカを頬張り、宿題そっちのけで虫取りをしていたあの夏の日。 親父は大正生まれの軍人上がりで、わたしは40歳の時の子供である。父親と40年の開きのある子供は当時珍しく、マイホームパパが流行の時代に、何とも古風な家柄のなか育てられていた。 ベットタウンへの移行の中で、マイホームパパたちが電車に揺られて出勤をする。一方で貸家業を営んでいた親父は、いつ何時でも家に居る地主であった。いや、正確にいえば家業は母に任せ、自らは庭手入れと骨董品集めという誠に結構な境遇だった。 もっとも、江戸時代からの地主といえば聞こえは良いが、代々の土地を世襲するのが定めなだけで、現代風の土地活用とは無縁の我が家は見た目ほどに裕福な家庭ではなかった。土地の一角にボロ長屋を構え、鯉のぼりの立つ田舎の風景を想像してみてほしい。ましてや、先の戦争で青春を奪われたという免罪符を手にした親父は、殊更にがむしゃらに働くことに人生の意義を感じるほどには勤勉ではなかったのである。 無骨でぶっきらぼうな親父の教育が、嫌いだった。母や姉や祖母の優しさが、かろうじて私の自我を守ってくれている。いつもそう思っていた。反面、強いものへの憧れは幼少期から培われていたように思う。絶対的存在の親父を疎ましく思いながらも、本人の語る武勇伝を誰よりも真剣に聴いていたのが私なのである。畏怖の念も多分にあったろう。他人に比べれば充分すぎるほどに一緒に居る時間があったにもかかわらず、親父の存在は近くて遠かった。そうした親子関係の中で、私と親父を唯一結びつけたのが、箱型スカイラインGT−Rの連戦連勝の雄姿であった。親父がRを大好きであろうことは、新聞や自動車雑誌を買いあさりテレビにかじりついていた様子で、興味のない家族にすら明白なる事実である。 |
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その頃の我が家のマイカーは、中古でエンジ色のズングリムックリとした410ブルーバードである。迫力のないエンジン音。いかにも遅そうなスタイル。テレビ越しに聴こえるRの轟音とは似ても似つかわないそれは、メーカーが同じであること以外に何らの共通点もない。交差点の信号が青に変わる。武勇伝で負け知らずの親父が駆るブルーバードは、いつも他車の後塵を拝していた。親父のせいではないにせよ、「強くて負けないおとうさん」のイメージをぶち壊しにする、このエンジ色の憎い奴をなかなか好きになれなかった。 このエンジ色との思い出は、家族3人だけの「横浜ドリームランド」旅行だった。蛙が嫌いなくせにケロヨンの大好きな私が、ケロヨンがテレビの向こうでなく実際に会えることを強くせがんだためだった。 |
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スーパージェッターとまではいかないが、それにしても凄い。親父も実物には驚きを隠せなかったに違いない。 帰り道、またまた410の雰囲気に負い目を感じつつ、後部座席に真横にされたまま毛布に包まれた私は、親父が右左折するたびに真横目線で見える奇妙な風景を眺めつつ、いつしか眠りについていた。 |
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4発で出足が良くて、それでいて廉価版のやつ。でもどうしてGSSの145psではないんだろう?115では、スカイライン軍団に太刀打ちできないではないか・・・・・・・。子供心にいつもそう感じていた。 |
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コロナマークUGSLを購入した時のことは、幼少期だったものの記憶している。前にも触れたが、長屋の借家の収入では、どうにもスカイラインGT−Rは高嶺の花だった。 このクルマ、やはりというべきか、スタイルがいまひとつなのだが、出足の良さは目を見張るものがあった。買えないハコスカGT−Rへの憧れは強くなる一方で、現実はGSLで我慢というのは親子一致の意見だったように思う。怖い親父だったけれど、座高の低い私を助手席に座布団を4枚も重ねて、フェンダー越しの風景をプレゼントしてくれたりする一面もあった。そんなところが大好きだった・・・・・・・・。 |
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昭和50年。オイルショック、トイレットペーパー買占め、排ガス規制。これらがトドメで、モータースポーツは長く暗いトンネルに入った。少しずつだが、我が家の収入も増えだした頃だったというのに。 |
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セドリック2800SGL。 |
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料金所で支払を済ませたあと、親父の運転席のガラスは開いたままだった。装備が多い割りに、こうした基本の部分故障こそが、当時の電装系の限界だったのであろう。 |
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セドリックがその役目を終え廃車回送となったのは昭和59年、私が二十歳の時である。 今に至る話だが、親父から譲り受けたこのクルマを、27年間も乗り続けている。 |
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時代は昭和から平成へと変わっていた。大正13年生まれの親父も、65歳。実年と老年の狭間に立っていた。 |
あれはちょうど私が25歳のとき、親父から日産へ出かけようかと誘われた。 かくして、32型GT−Rは、親父の楽しい「おもちゃ」となった。 |
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親父の生涯の中で自らの意思で購入したラストのクルマは、平成9年 プレジデントである。 当時どうしても買えなかったハコスカGT−R。 その後は、自分の意思と異なり、我が家のクルマという形でE51エルグランドを、たまさか乗る程度になっていた。 |
平成17年。息子である私が、遂にハコスカGT−Rを手に入れることになる。さまざまな神話を聞かされていたGT−R。 過ぎ行く時間は残酷にも、家族の形を変えてゆく。 乾いた風が心地よい、ある秋晴れの昼下がり。わたしはハコスカGT−Rに火を入れてみた。ハコスカの暖気運転は時間がかかる。心もち、アイドリングが高めになり、テールパイプからは元気よく触媒レスの排気がたなびいている。 「ずいぶん、いい音だな、誰のクルマだ?」 残念ながら、親父の記憶からは、ハコスカGT−Rの雄姿は既に消えていた。間に合わなかったなぁ、と思った。 「どうだい、じいちゃん!久しぶりに庭の中で動かしてみないか?」 エルグランドを発進させることは出来なくなっても、親父のクラッチ操作とギアの入れ替えは昔のまんまだった。 「いい音してるな。ああ。もういいや!」笑顔の親父は颯爽と背筋を伸ばしハコスカを降りた。 N尾 |