当社でメンテナンスさせて頂いているGTR乗りのお客さまより、「内田さんには読んで貰いたい」と送られてきたものです。
コレを読んで、やはりスカイラインは皆に愛されている車で、更にハコスカには一人一人のドラマがある!
いい話だな、と想い、期間限定ではありますが、クリスマス特別企画の読みきりとして「奇跡の10メートル」当HPに掲載させて頂きます。
感じ方はひとそれぞれだと思いますが、私はとてもいい話だと想いました。
全てのハコスカ乗りにはドラマがあると想います。
あなたのハコスカにも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


奇跡の10メートル

梅雨明けした昭和46年はひときわ暑い夏だった。スイカを頬張り、宿題そっちのけで虫取りをしていたあの夏の日。
夏休みとはいえ、娯楽と呼べるようなものは何もない家である。来る日も来る日も、庭には蝉時雨がこだまし、およそ変化の乏しい、セピア色の夏休みだった。

親父は大正生まれの軍人上がりで、わたしは40歳の時の子供である。父親と40年の開きのある子供は当時珍しく、マイホームパパが流行の時代に、何とも古風な家柄のなか育てられていた。

ベットタウンへの移行の中で、マイホームパパたちが電車に揺られて出勤をする。一方で貸家業を営んでいた親父は、いつ何時でも家に居る地主であった。いや、正確にいえば家業は母に任せ、自らは庭手入れと骨董品集めという誠に結構な境遇だった。

もっとも、江戸時代からの地主といえば聞こえは良いが、代々の土地を世襲するのが定めなだけで、現代風の土地活用とは無縁の我が家は見た目ほどに裕福な家庭ではなかった。土地の一角にボロ長屋を構え、鯉のぼりの立つ田舎の風景を想像してみてほしい。ましてや、先の戦争で青春を奪われたという免罪符を手にした親父は、殊更にがむしゃらに働くことに人生の意義を感じるほどには勤勉ではなかったのである。

無骨でぶっきらぼうな親父の教育が、嫌いだった。母や姉や祖母の優しさが、かろうじて私の自我を守ってくれている。いつもそう思っていた。反面、強いものへの憧れは幼少期から培われていたように思う。絶対的存在の親父を疎ましく思いながらも、本人の語る武勇伝を誰よりも真剣に聴いていたのが私なのである。畏怖の念も多分にあったろう。他人に比べれば充分すぎるほどに一緒に居る時間があったにもかかわらず、親父の存在は近くて遠かった。そうした親子関係の中で、私と親父を唯一結びつけたのが、箱型スカイラインGT−Rの連戦連勝の雄姿であった。親父がRを大好きであろうことは、新聞や自動車雑誌を買いあさりテレビにかじりついていた様子で、興味のない家族にすら明白なる事実である。

 

その頃の我が家のマイカーは、中古でエンジ色のズングリムックリとした410ブルーバードである。迫力のないエンジン音。いかにも遅そうなスタイル。テレビ越しに聴こえるRの轟音とは似ても似つかわないそれは、メーカーが同じであること以外に何らの共通点もない。交差点の信号が青に変わる。武勇伝で負け知らずの親父が駆るブルーバードは、いつも他車の後塵を拝していた。親父のせいではないにせよ、「強くて負けないおとうさん」のイメージをぶち壊しにする、このエンジ色の憎い奴をなかなか好きになれなかった。

このエンジ色との思い出は、家族3人だけの「横浜ドリームランド」旅行だった。蛙が嫌いなくせにケロヨンの大好きな私が、ケロヨンがテレビの向こうでなく実際に会えることを強くせがんだためだった。
ここでも私はカルチャーショックを受ける羽目になる。リアハッチを外したトヨタ2000GTの後部に立つケロヨンを目の当たりにして、ケロヨンそのものよりも、あんな流麗なクルマがこの世にあるのかと・・・・・・・・・。

 

スーパージェッターとまではいかないが、それにしても凄い。親父も実物には驚きを隠せなかったに違いない。
結局のところ、ケロヨン目的のドリームランドは私をクルマ好きにさせる役割となった。
(そういえば、泳ぎ目的で出かけた船橋ヘルスセンターで、ミヤマグワガタを売ってるのを見て、遊んだ記憶よりもクワガタのみが残像となったのと同じだ)

帰り道、またまた410の雰囲気に負い目を感じつつ、後部座席に真横にされたまま毛布に包まれた私は、親父が右左折するたびに真横目線で見える奇妙な風景を眺めつつ、いつしか眠りについていた。
ぼろい410ブルが揺り篭のようだった・・・・・・・・。
私の記憶の中の410ブルは、その時の眠った記憶が最後である。

  

4発で出足が良くて、それでいて廉価版のやつ。でもどうしてGSSの145psではないんだろう?115では、スカイライン軍団に太刀打ちできないではないか・・・・・・・。子供心にいつもそう感じていた。

 

コロナマークUGSLを購入した時のことは、幼少期だったものの記憶している。前にも触れたが、長屋の借家の収入では、どうにもスカイラインGT−Rは高嶺の花だった。
普通、お金の事情なんて子供に言わないだろうに、高いから買えないのだということを嫌というほどに聞かされていた。だから115馬力のGSLなのであった。

このクルマ、やはりというべきか、スタイルがいまひとつなのだが、出足の良さは目を見張るものがあった。買えないハコスカGT−Rへの憧れは強くなる一方で、現実はGSLで我慢というのは親子一致の意見だったように思う。怖い親父だったけれど、座高の低い私を助手席に座布団を4枚も重ねて、フェンダー越しの風景をプレゼントしてくれたりする一面もあった。そんなところが大好きだった・・・・・・・・。

 

昭和50年。オイルショック、トイレットペーパー買占め、排ガス規制。これらがトドメで、モータースポーツは長く暗いトンネルに入った。少しずつだが、我が家の収入も増えだした頃だったというのに。
親父のクルマ趣味の嗜好は、この頃を境に変化する。どうせ牙を抜かれたクルマ達の中からチョイスするならば、豪華路線へと向かうのは実年世代の男とすれば当然だったのかもしれない。

 

セドリック2800SGL。
昭和50年で33ナンバーは珍しかっただろう。そういうステータスとして乗るには充分のクルマだった。
私としては、豪華路線よりもスポーツカーに興味があったものの、文句は云えない。
L28エンジンは、音がうるさい割りには例の排ガス規制触媒のお蔭だろうか、出足の悪さが致命的である。
マークUGSLのほうが全然速かった。
あこがれ続けたスカイラインGT−Rと同じ日産車になったというのに、又も遅いクルマなのにはショックだった。
冬の越前海岸に家族で旅をしたときのこと、出先で何とパワーウィンドウが壊れたのである。

 

料金所で支払を済ませたあと、親父の運転席のガラスは開いたままだった。装備が多い割りに、こうした基本の部分故障こそが、当時の電装系の限界だったのであろう。
「つまんねーな、オートマは。お前でも運転できるわな!」親父にこういわれて、庭限定だがでかいセドリックを運転したのが13歳だった。ハンドルがクルマの真ん中に無いから、自転車と違って難しい。
当たり前であるが、当時はそう感じつつ、このクルマの前進後進を楽しんでいたのである。

 

セドリックがその役目を終え廃車回送となったのは昭和59年、私が二十歳の時である。
ここで、親父はもう一度、マニュアル車に乗り換える決心をする。これが、費用折半で購入したスカイラインRSターボだった。

今に至る話だが、親父から譲り受けたこのクルマを、27年間も乗り続けている。
4気筒で加速は暴力的・・・・・・。荒々しい動きと、シフトが揺れる(二次振動で)ことに親父は苦々しい思いをしているようであったが、私は逆にその荒々しさの虜になっていた。
親父の心の中には、あのハコスカGT−Rへの憧れが未だに強く残っている。言葉にしなくても感じていた。

 

時代は昭和から平成へと変わっていた。大正13年生まれの親父も、65歳。実年と老年の狭間に立っていた。
時に、GT−Rに乗りたい意思を久々に喚起させる出来事が起こる。そう、16年ぶりのR32型GT−Rデビューである。


あれはちょうど私が25歳のとき、親父から日産へ出かけようかと誘われた。
日産のショールームには、まばゆいばかりのGT−Rが佇んでいる。
値引きはたったの1万円。それ以上は、掃除用の一式バック等のオプション品を付けるのみであるとのことだった。
でも、親父は昔に乗ることの出来なかったGT−Rに乗りたかったのだろう。
母の承諾も得ないまま、ショールーム内で商談成立となったのである。

かくして、32型GT−Rは、親父の楽しい「おもちゃ」となった。
70歳になった時に、スピード違反で捕まった際に、警官から「若者の乗るようなクルマで元気良いのはいいけど、飛ばしすぎですよ!」と諭されたときは、「あんたも、乗りたいだろ?」と反論したらしい。

  

親父の生涯の中で自らの意思で購入したラストのクルマは、平成9年 プレジデントである。
32GT−Rのことを、乗り始めた頃にずっと誉めていた。走りの完成度の高さは、親父の想像を超えていたのだろう。
それでも、ある時の昔話で・・・・・・・。ハコスカGT−Rが富士スピードウェイを席捲していたころ、私が親父に連れられて富士で感じた、音、振動、匂いいずれも親子で覚えていた話題になった。

当時どうしても買えなかったハコスカGT−R。
この夢の代替として迎えた32GT−Rだったはず。でも、親父の目は、遠い昔の憧れハコスカGT−Rのみを見ていた。完成度の高さと憧れが必ずしも一致しないという例だった。
私で云うなら、ポスト山口 百恵といわれた松田 聖子が、あくまでも憧れの百恵ちゃんにはなり得ないのと同様に。
ラストは、老年にふさわしく日産の最高級車で、自分を満足させたのかもしれない。

その後は、自分の意思と異なり、我が家のクルマという形でE51エルグランドを、たまさか乗る程度になっていた。
運転が好きだった親父は、迫る老いからもがくように、それでも「乗る」ことに拘っていたように追憶している。


平成17年。息子である私が、遂にハコスカGT−Rを手に入れることになる。さまざまな神話を聞かされていたGT−R。
例えば、免許採りたての頃(このクルマの中古価格がまだ安かった頃)、行徳の中古車屋さんにポツンと置かれた白のGT−Rがあった。ローンを組んでも欲しいクルマであった。ところが、その店のおじさんは私にこう云った。
「君が小さい頃の憧れだけで、このクルマを購入したらきっと手に負えずに後悔するよ。も少し、クルマを判るようになって、探してみるのがいいよ」と。
その言葉にしたがって30鉄仮面を親父と乗ってから、すでに20年の歳月が流れ、私は40、親父は80歳になっていた。そしてハコスカがやっと我が家の一員になれた頃、親父の認知症は確実に彼の頭脳を冒しはじめていた。

過ぎ行く時間は残酷にも、家族の形を変えてゆく。
ある時、エルグランド(オートマ)の前進はどうやるのかを尋ねられ、もはや運転は限界と感じた。あれほど好きだった運転を辞めさせることに息子としてどう向き合えば良いのか。
「人でもはねたら大変なことになるから、運転辞めて俺のクルマの脇に乗るようにするか?」拒否されると思いつつ訊いてみた。ところが意外にもあっさりとした快諾。
「そんなの、危ないことは判ってるから運転はもう、よすべ!」
母が倒れた時、既に相当ボケていた親父が母について「ああ、ばあさんがこんなことになってしまうんだったら、俺が先にボケてしまえば良かったかもしれない」と云って嘆いたことを思い出した。
そうか・・・・・・。この人自分はボケていないと信じ込んでるんだ。であれば、良心に甘えてそうさせてもらおうと、後ろ髪を引かれる思いで免許の更新手続きの放棄をおこなったのである。

乾いた風が心地よい、ある秋晴れの昼下がり。わたしはハコスカGT−Rに火を入れてみた。ハコスカの暖気運転は時間がかかる。心もち、アイドリングが高めになり、テールパイプからは元気よく触媒レスの排気がたなびいている。
暖気完了の時点で、アクセルを吹かしこんでみる。
6歳の頃に、親父と富士で聴き入った「あの音」が庭中にこだましている。
親父が盆栽の手入れをやめて、木鋏みを置き近づいてきた。

「ずいぶん、いい音だな、誰のクルマだ?」
「俺のクルマだよ、ほら昔、富士まで見に行ったハコスカのGT−Rだよ!わかる?」
「ああ、そうか・・・・・・・・・・。」

残念ながら、親父の記憶からは、ハコスカGT−Rの雄姿は既に消えていた。間に合わなかったなぁ、と思った。
あんなに好きだったのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
それでも、思い出してくれ!と云わんばかりに、ハコスカのアイドリングは会話を遮るかのような自己主張をしている。

「どうだい、じいちゃん!久しぶりに庭の中で動かしてみないか?」
「そうだなぁ、じゃちょっとやってみるか!」
私が助手席に乗り、もしも暴走したら思い切りサイドを引こう。サイドは甘い部類のクルマだが、加速する程に距離もないから何とかなる。

エルグランドを発進させることは出来なくなっても、親父のクラッチ操作とギアの入れ替えは昔のまんまだった。
そこには、すでにクラッチ、ブレーキ、アクセルの意味合いすら理解の出来ない親父が、見事にハコスカを調教しながら前進をさせた。そして後進もさせた。
こうして、無理かと思われた親父のハコスカGT−Rのデビューは、奇跡の10メートルとして私の記憶にしっかり残ることとなった。
しかもその姿は、遠い昔の富士へ乗せていってくれた若き日の親父がしっかりと重なって見えたのだ。

「いい音してるな。ああ。もういいや!」笑顔の親父は颯爽と背筋を伸ばしハコスカを降りた。
「もういいや!」この言葉、親父からの大好きなクルマ運転への惜別の言葉なんだ。
そう思った私は、親父とハコスカの何十年来の恋が成就した喜びで、前が見えなくなった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

N尾



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