特別掲載!! 〜2〜


社長はこんな人!!

雑誌“Nostalgic Hero” Vol.71 1999Feb.より

すべてを決定づけたPCG10との出合い

熱狂的なファンにとって、箱スカとは例えていえばひとつの宗教である。教祖が開発責任者である桜井真一郎氏で、使徒が開発関係者や当時のワークス・ドライバー。信者はもちろんオーナーおよぴファンたちである。

だが、誕生から30年を経過した現在では、信者の世代交代が進んできた。そのため、なかには教義が誤って伝えられているケースも少なくない。取り扱い車種は箱スカのみというスペシャル・ショップ、“内田モーターワークス”の代表である内田幸輝は、そうした“箱スカ教”の現状を正しい方向に導き、なおかついっそう広めようという、伝道師のような存在である。

とはいえ、彼は現在35歳。リアルタイムで箱スカを経験した世代ではない。しかし、18歳のときから街乗りもレースも箱スカ一筋というから、言うなれば箱スカ第二世代のリーダーであり、青年部長なのである。

内田モーターワークスは東京の下町、江東区白河にある。周囲には古くからの自動車整備工場が数軒立ち並んでいるのだが、店の隣も間口の広い、昔ながらの修理工場である。看板には“内田自動車整備工場”とある。つまりここが彼の生家なのだ。戦前から続く修理工場の3代目というのが、彼のもうひとつの顔なのである。

「兄妹で男は僕一人だし、車は大好きでしたから、当然のごとく継いだわけです。でも、あくまで工場は祖父が始めてオヤジが発展させたもの。それはそれとして、自分でも何かを始めたいという気持ちが昔から強かったんですね。それで5年ほど前、93年にモーターワークスを立ち上げたんです」

どうせやるなら好きで得意な分野を、ということで箱スカ専門店となったわけだが、意外や当初の構想では旧車全般を扱うつもりだったという。

「心は常に箱スカオンリーなんですが、ビジネスとなるとそうもいかないだろうと、これでもいちおうは考えたんですよ。ところがいざやってみると、やっぱり箱スカだけになっちゃった(笑)」

内田と箱スカの出会いは、今から約四半世紀前、彼が小学校5年生のときだった。家業が修理工場だったとはいえ、さほど車好きというわけではなかった内田少年は、ボーイスカウトのキャンプに向かう際、隊長の愛車だった69年式PGC10(4ドアGT‐R)に乗りあわせたのである。

「僕を含めた何人かがマイクロバスに乗りきれなくて、たまたま助手席に座る栄誉に浴したんですが、最初は車名すら知らなかったんです。ところがいざ走り出したらこれがスゴイのなんの。それまではオヤジのカローラくらいしか知りませんでしたから、強烈な加速と暴力的なまでの音はまるで異次元の乗り物のように感じましたね」

初体験ですっかり箱スカにシビレてしまった内田少年は、それからは箱スカ一直線。雑誌やカタログをはじめ、さまざまな資料を片っ端から筆高校生のころにはいっぱしの箱スカ通となり、18歳で免許取得と同時に71年式GC10(4ドアGT)を入手した。もちろんGT‐Rは憧れだったが、20歳前の少年に手が届くわけもない。ちなみに価格は3万9500円、未納分の税金だけ払って引き取ってきたシロモノだったという。

「安いのは理由があるわけで、もうあっちこっち壊れまくり。とはいえこっちも修理屋のせがれですから、手探りでひとつひとつ直していくわけですよ。速くもしたいから、パーツを買ってきてはあれこれいじりまわす。あの車は程度は最低だったけれど最高の教材でしたね。車のメカニズムと整備、チューニングの基礎を徹底的に学びましたから」

間もなくクラシックカーレースにもデビュー。街乗りとレースの双方から、スープアップやモデイファイのノウハウを積み重ねていく。やがては憧れのPGC10、それも彼の人生を決定づけた隊長の車そのものを譲り受けることも実現した。

こだわりから生まれたオリジナルパーツたち。

それから間もなくしてモーターワークスを開設。当初は主にそれまでにストックしていた純正パーツの販売から始め、約1年過ぎてようやく軌道に乗り始めたころにオリジナル商品の開発に乗りだした。

「手持ちの在庫も続くわけではないし、メーカーで生産中止になってしまったパーツもある。加えて、レースをやっていると走るために必要なものも次々に出てくる。当時は『箱スカにも使える』というのはありましたけど、『箱スカ専用』というパーツはほとんどありませんでしたからね」

オリジナル第1号はタコ足。以後続々と新製品をリリースし、現在ではステッカーなどの小物類も含めればアイテム数は100前後あるのではないかという。

内田の商品開発に対する姿勢はきわめてシンプルかつ明快だ。レプリカバーツは純正部品に対する忠実さを、スープアップパーツは性能と信頼性をそれぞれできるかぎり追求するというものである。いずれも一般ユーザーの手が届く価格で、という条件付きなのはいうまでもない。

たとえ小さなパーツでも、設計から試作、テストを経て商品として完成するまでに要する時間とコスト、そして労力はバカにならない。苦労して作ったパーツが、やれここが違うとか、値段が高いとか言われてしまうと、正直言ってガックリくることもある。また、よそから二番煎じの類似商品が安く出されてしまい (開発コストがかからないぶん、当然低い価格設定が可能)、悔しい思いをすることもあるという。

「とはいえ、自分が納得できるものを自信をもって売りたいから、方針を変えるつもりはありません。そういう姿勢をお客さんに評価していただいたときは、本当にうれしいし。 ただし、変な言い方に聞こえるかもしれませんが、商品はあるうちに買っていただきたいですね。率直に言って、あまり数量が見込めないものでも作るとなればある程度の数をまとめなければならない。そういう商品の在庸がなくなると、今度はいつ作れるかお答えしようがない場合が多いんですよ」

今までにプロデュースした製品のなかで、もっとも反響が大きかったのはショートストロークのサスペンションキット。従来の単純にストロークを短縮したものとは根本的に異なり、設計段階から組み込んだ状態でのトータルバランスを追求したコイルスプリングとショックアブソーバーのキットだ。

ショックはフロント4段、リア8投の調整式となっており、ストリートからサーキットにおけるスポーツ走行までフレキシブルに対応し、操縦性と乗り心地を高次元で両立させた自信作だという。

そのほか“走り”関係では、ブレーキパッドや足回り用のウレタンブッシュなどはすでに定番商品となっており、強化エンジンマウントやステアリング・ギアボックス・ストッパーなどの新製品も注目を集めている。これらはいずれもサーキットでの経験がフィードバックされた製品である。

いっぼう純正をしのぐほどの出来栄えのGTエンブレムやフロアマットなどのレプリカパーツや、純正の米粗柄を忠実に再現したビニールレザーを使ったシートの張り替えなどもマニアの間で高く評価された。

最近リリースされた、フルスケール1万2000rpmのタコメーターもマニアックなアイテムだ。誤差が大きい純正の電流検出式に換えて電圧検出式ユニットを採用、文字盤は純正と同書体ながら1万2000rpmに刻まれており、高回転型のチューンド・ユニットにも対応する。箱スカ本来の雰囲気を保ちつつ、性能およぴ信頼性は格段にグレードアップ。小さいながらも、内田のオリジナルパーツに対するこだわりが凝縮された一品といえるだろう。

1台でも多くの箱スカを残したい。

現在、内田モーターワークスの業務の約7割をそれらオリジナルパーツの通信販売が占めるという。だが、前述したように工場が隣接しているので、望めばパーツの組み込みをはじめ車検・一般整備からチューニングやレストア、レーシングカーの製作まで、箱スカに関することならあらゆる相談・要望にこたえることが可能である。

取材にうかがった98年11月中旬、内田は整備工場とモーターワークスの業務に加え、12月6日にFISCOで開かれたニスモ・フェスティバル用の初年JAFグランプリ仕様PGC10レプリカ(篠原孝道のドライブでデビュー・ウィンを飾ったゼッケン39番)の製作を抱え、大忙しの状態だった。

「99年シーズンはPGCでP70レースに出場するつもりでしたから、ベースカーは手配済みだったんです。そこにたまたまニスモから話があったので、『だったら急いで作っちゃぇ』となったわけ。ファンはもちろん、箱スカを知らない世代にも『30年前の車でもマジメに取り組めばこれだけ走る』ということを知ってもらう絶好の機会ですから」

内田に言わせると、箱スカの魅力は、ほかの何物にも似てないスタイリングや偉大なレースでのヒストリーもさることながら、その走りに負う部分が大きい。

「何度も言うようだけど、30年も昔の車なのに、ちゃんと手を入れてやれば街乗りからサーキットまで現在の単に伍してバンパン走れる。これはスゴイことだと思うし、とにかく箱スカの魅力や真価は走ってこそわかると思うんです」

ちなみに現在のプライベートカーは、前述の隊長から譲り受けた68年式PGC10と70年式GC10改3.0L。街乗り用に関しては当初から一貫して4ドアのみという。そんな彼にとってのベスト・オプ・箱スカとはいったいどのモデルなのだろうか。

「う−ん、難しい質問だなあ。そもそも僕はGT-RやGTは当然のこと、バンを含めた4気筒モデルまで箱スカならすべて好きなんです。だから『GTよりGT‐Rのほうがエライ』とか『R仕様なんてニセモノ』という格付けや差別が大嫌い。S20型もL型もG型もそれぞれの魅力、よさがあるわけですから」

だが、角目吊り上げ・無意味なハの字シャコタン・直管にスリック、で街中を走り回るような路線だけは勘弁願いたいという。

「自分の車をどうイジろうが勝手なんですが、箱スカはそういう車じゃないと思ってますから、そういう方向性の方には申し訳ないですが店のほうでもお断りしてます」

個人的な好みの問題だけではなく、放っておいても減りこそすれ、けっして増えることはない旧車をわざわざ自滅させるような行為を認めるわけにはいかないのである。

「なぜ僕が店をやってるかといえば、もちろん箱スカが好きだからなんだけど、好きだからこそ他の箱スカ乗りにもいい状態で乗ってほしい、その手助けをしたいからなんです。そして、いずれは次世代に継承していきたいと思ってるんですよ」

そのためにも現在箱スカに乗っているオーナーには、大事に乗ってほしいという。それは決しておとなしく乗れというのではない。例えば壊れた部品でも粗末にせず、リビルドできるものは直して使うということなのだ。「部品を売っているくせに、と言われるかもしれませんが、壊れてもないのに古くなったから新品に換えたいとかいうのは、ちょっと違うんじゃないかと思うんです。とことんキレイにしたい気持ちもわかるんですが……」 絶版車である箱スカ専門という内田モーターワークスの業務形態は、ビジネスという観点からすれば将来的な伸びがそれほど期待できるものではない。

それどころか、効率からすればかなり分の悪い仕事である。そのことはだれよりも内田自身が知っている。「この不況の時代、どこまでやれるかと言われると、はっきり言って自分も不安です。でも、できるかぎり箱スカにこだわり続けたいですね」

1台でも多くの箱スカを後世に残したい、そして1人でも多くの人に箱スカの素晴らしさを知ってもらいたいという使命感に燃えた内田は、やはり箱スカの伝道師と呼ぶにふさわしい人物だった。
(文中敬称略)


MAINへもどる